2011年9月12日月曜日

9・11から10年

あの時バンクーバーでは
By Koji Shimizu

昨日9月11日はあのニューヨークでのテロから10周年でした。TVではあの時の映像が何度も流れ、新たなテロの危険性を繰り返し伝えていましたが、幸い何事もなく12日を迎える事が出来ました。

多くの方にとってあの事件は歴史の一こまでしか無かったと思いますが、私にとっては忘れる事の出来ない大きな事件でした。

あの日、いつもの様に朝7時頃に起き、コーヒーを飲みながらいつもの様に自宅のTVでニュースを見ていました。

TVに大きく映し出されたのは国際貿易センタービルに飛行機が突っ込む様でした。

瞬間何が起こっているのか全く判らず、只画面を見つめるだけでした。ニューヨークで何かが起こっていると認識をするまでにはそれ程時間は掛かっていなかったと思います。

その当時私は旅行会社とリムジン会社を経営していて、日本の大手旅行会社数社と契約をしており、バンクーバーを訪れる日本人観光客の送迎や観光を提供していました。

先ず関係各所に電話をして情報を整理しました。そこで明らかになったのは、ニューヨークが攻撃された事で北米中の主要な空港が一斉に閉鎖され、北米大陸でニューヨークから最も離れた空港の中で一番機能の充実しているバンクーバー空港だけを開け、北米に向かっている航空機を全てバンクーバーで受け入れると言う事でした。

直ぐに従業員やドライバー全員に電話をし、スタッフ全員と全ての車両を空港に配備する様に指示を出しました。確かあの当時は小型・中型のバスやリムジンを12台程保有していたと思います。

私は直ぐにダウンタウンの事務所に向かい、会議室に電話回線やTVを引き込み、臨時の本部を設け、取引先各社に電話連絡を開始しました。その時私の頭の中では「これは大変な事になる」という思い、「当分家には帰れそうもないだろう」との思いが過りました。事情を知らずに出社してきた従業員(この時には留学事業も同じ事務所で行っていましたので、留学事業部のスタッフは招集していませんでした)に状況を説明し、当座今まで通りの業務をこなす様に指示を出すと同時に、先ずは10日間私の部屋を近くのホテルに確保する様に命じました。

空港からは悲鳴に近い報告が次々と入りました。

バンクーバー空港には北米各地を目指していたジャンボ機がアッと言う間に24機臨時着陸をしたそうです。取引先の大手旅行代理店からは兎に角何百人のお客さんがいるか推測が付かないが、その会社のバッジや日程表等を持っている人は全員救済をする様にとの指示が有りました。

空港班が代理店のロゴ看板を出すと同時に数十人の人間に囲まれたとの事。皆さん機内では一切説明が無く、勿論ニューヨークが攻撃された事等知る術も無いままバンクーバーで下ろされていました。自分が何故バンクーバーで下ろされたのか、これからどうするのか、何が起こったのか・・・・・次々と浴びせかけられる質問で空港班はパニックになっていました。

ニューヨークだけでなく、北米各地に向かっていた全ての人々が、何も知らされず、何も判らず、中には此処がバンクーバーと言う事も判らない方も沢山おられました。

空港で出迎えたはいいが、それからどうするのか・・・・・・・取引先と協議の上、先ず市内の大型高級ホテルのコンベンションルームを押さえ、そこに一度収容をして身元確認をしようと言う事になりました。直ぐに部屋を確保すると同時に数人の日本人スタッフと有りったけの携帯電話、コピー機を持ち込臨時対策室を設置しました。

同時に市内のホテルに片っ端から部屋を確保するべく電話をかけましたが、観光シーズンの真っ只中だけに殆ど空室は無く・・・徒労でした。そこで気が付いたのはそれまでは到着した方ばかり見ていましたが、本来出発をされる予定の方々も出られない、まさにバンクーバー中に人が溜まった状態に陥ったと言う事でした。

その間にも空港からは次々と報告が入り、空港は人で埋まっており、これ以上は引き伸ばしは出来ない状況と判り、直ぐに全車両を使ってピストン輸送を開始する様に指示をしました。

空港のパニックは30分余り後にホテルでも始まりました。

空港班に浴びせられた質問と同じ質問がホテル班にも集中しました。更に部屋はどうなる。ホテルの手配は、いつ帰れるのか・・との質問も全ての人から有りましたが、先ずは身元確認に留め、皆さんにはコンベンションルームの床でお待ち戴きました。

状況を見かねたホテルのマネージャーから紅茶とドーナツが差し入れされましたが、次々と送られて来るお客様で部屋は瞬く間に一杯になりました。お客様の身元を確認し、大手旅行社の顧客で有る証明をお願いしている中で、その会社とは全く関係の無い方で、便乗をしてホテルまで着き、情報を得ようとする方々が沢山混じっていた事も判りました。

ホテルからこのままでは多くの方が行き場を無くすとの事で、本来は認められないがとホテル中の簡易ベッドをコンベンションルームに搬入して貰いました。確か30基余りのベッドが入ったと記憶しています。

夜には空港の混乱は止まり、空港班は全員ホテルに集めて対応に廻りましたが、長期戦が予測されたので落ち着いた頃に一度全員を引き揚げさせました。

それから取引先との対策会議、日本との連絡等々でその日私が事務所を出たのは夜も白む頃で、確保して隣のホテルでシャワーを浴びて2~3時間仮眠をして会社に戻りました。

結局250名余りの方々を収容し、多くの方には翌日にはホテルを確保しましたが、中にはそのままコンベンションルームに滞在された方も多く、持ち込んだ簡易ベッドは満席でした。

多くの航空会社は免責を主張し、帰国を望む方には到着した便で一度予定目的地に飛び、そこから折り返して日本に飛ぶ等の措置が発表されましたが、中には直接帰国を希望される方も沢山おられました。

所持金が無くなった方、予定目的日は行きたく無いし自分で切符を買うのも納得できないと怒る方、この際だからと観光を楽しむ方・・・・色々な方がおられましたが、結局全員がコンベンションルームから出て行かれたのは10日後でした。

その間、10日間予約をしていた私の部屋は、1泊した後12日の夜戻ると他の方に転売されていました。ホテルの説明は荷物も無かったので帰ったと思ったとの事。交渉をして何とか部屋を確保は出来ましたが、家に戻れたのは最初の予測通り10日程経った後でした。

あの嵐の様な毎日から10年。ニューヨークだけで無く、私の人生の歯車もあの事件から少しずつ狂ってしまった様な気がします。

世界の経済も、全てがあの事件以降徐々に悪くなり、そして10年。早い物です。

あの時の記憶は徐々に曖昧になって来ました。今、忘れる前に10年前のあの日を思い出してみました。